
遅参した上総介を一喝する頼朝。
こうく
武家の三介退治は、近世以降のもので、浮世絵のモチーフなどに見られる。 三浦介と上総介が選ばれたのは公卿たちの会議の中で「日本で名高い弓の名手」とされたから。 騎射三物のひとつ「犬追物」は、この玉藻前退治の練習として行ったことが初めであるという由来譚でもある。
ツネタケ
付け加えると、上総介広常が、フルで二万人動員したとしても(普通は、そんなフル稼働しない)、戦闘員は、その半分以下になる。二万という数は、『吾妻鏡』の「二万騎」からきているが、上総一国で動員できる数でないのは、当時の常識で、なのに二万「騎」としたのかの説明は、寡分ながら聞かない。
キリエ
真偽のほどは定かじゃないのだが(こればっかり?)この九尾の狐を退治したお話の時、義明公は既に61歳だった、という説を見た。 1180年、義明公89歳。とするのとこれは1152年の出来事(と仮定する)。 千葉常胤はまだ34代半ばかぁ…、上総介は幾つぐらいだったんだろ?>RT
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